2011年3月16日水曜日

一人ぼっちになるかと

ご連絡いただいた皆様本当にありがとうございます。
三日三晩、仮眠もそこそこに情報を集め安否を模索しておりました。
そのせいで折角お知らせいただいていたのに、気がつきませんで大変申し訳ありません。
皆さんのお気遣いに思わず溜めていたものを吐き出すかのように、声を上げて泣いてしまいました。

近況を申し上げます。
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越田鮮魚店夫婦
個人名により中略
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いまだ情報掴めず。
安渡小学校が有力な避難経路と思われます。今までも「安渡小学校に上がった」と話しておりましたので。(二渡神社には名簿載っていませんでしたね)
まだ、安渡小学校避難名簿が出ておりません。

■妹と子ども(個人名中略) 大槌高校に名前を発見。
大ヶ口はあとワンブロックというところまで津波が来たようです。
幸い津波の被害は無かったようで自宅避難をしていたのでしょう。
しばらく名簿に上がりませんでした。(今日やっと)
物資の調達は大高で出来たようなのでその際に名簿に記入したものと思われます。
妹のご主人は勤め先の釜石で避難できていたようです。
釜石の知人を探している時にラッキーにも見つけることができました。

■弟家族(個人名により中略)
三人は一時期大槌高校の名簿欄にありました。
最初は別々だったようですが、恐らく佐々木家に身を寄せたので名簿から無くなったのでは?
でも、しっかり名前三人ありましたから大丈夫と思います。

自宅避難者は名簿になっておりません。
そのためか大澤の叔父と叔母も名簿にありません。
無事を案じてます。


母は、ご承知のとおり足が悪いことをいつも自分自身念頭においてました。
だからこそ人の重荷になることを避け、我先に行動しなければという考えを常に持っておりましたが、逆に誰をもひもじい思いをさせてはならないという思いで家に戻りありったけの物資を積み込んでいたのではないか・・・。
そう思うと最悪の情景を思い浮かべてしまいます。

父もそんな母にはっぱを掛けられながらも母を気遣いきっと一緒に行動していたはずです。
地震から津波到達まで30分も無かった。店から家に戻りどのくらい家にいたのでしょう?
その経路を何度も何度も自分の中で頭で描く。
避難でごった返す中、車で上まで上がれたのだろうか?

弟も冷蔵庫で働いていて、身重の弥美さんを考えどんな経路をたどったのだろう・・・。

今日までどこをどう探しても誰も見つからない。
ずっと会社休ませてもらってリアルタイム、ツイッター、安否情報などを片っ端から探した。
親戚、友人からの励ましの電話、メールの対応。
主人も休んで家の事、ご飯の面倒を見てくれた。「一人にしたらあなた何も食べずにやるでしょ~」と。
食べる気力も無く、動く事も無くパソコンの前に居た私にせっせと食事を出してくれた。
だから母の安否を私に託した。(主人も両石なので)
主人の母13日深夜に安否確認が出来ました。無事です。


映像や空撮を見て愕然とした。
あまりの被害に「誰もいなくなっちゃった。一人ぼっちなの・・・」と気が遠くなった。
だって、地震が来たらいつも直ぐに電話で「大丈夫がぁ?!なんてもねぇが。」って来るはずなのに。子どもの前で大泣きした。

まだ不明者は多い。1万5千ほどの人口と思っていた。
避難者の発表は5千人程度。
この誤差はナンなんだろう?

町長が津波に呑まれたと報道があり、取材もいち早く入ったので皆さんも大槌を早く目にすることが出来たとおもいます。
ただ、岸壁には到底行けずバイパス沿い、マストあたり大槌病院周辺でしたね。
アップした写真は、被災者が二渡神社から安渡を撮影した写真です。
左側が大安タクシーの建物・・・後はすべてきれいさっぱり呑みこんでしまった。
壊滅です。

秋田の旅行者の不明報道がありました。
その旅行者のビデオ撮影がニュースでながれた。
店の近くを通って、恐らく市場などを見学されたのでしょうか?その映像が流れていました。「あっそこにお店が?!」と。
それが私が最後に見た“越田鮮魚店”でした。


山田の叔父(母の弟)が明日、大槌を尋ねてくれるそうです。
明日、あさってには安渡小学校、お寺なども名簿があがると思われます。
泣いてばかりはいられません。明日も検索に走ります。

生きていてくれたならまた、お店やるっていうかな?

私には見えます。
子どもの頃遊んだ公園、盆踊りをした広場、郵便局。

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