2011年8月27日土曜日

8/15 盆帰省 ・・・続く2

弟家族のその時

その日、弟は偶然にもお休みだった。
お嫁ちゃんの妊婦検診日をあてていたため、宮古に行っていた。
午後、検診を終えて帰路の途中、峠の山中で地震に遭遇した。下りに差し掛かったところで車が渋滞し始めたといいます。止まってしまった・・・。
車中でラジオ、携帯画像で津波の情報と映像を見た。もし下りきっての渋滞だったら津波に呑まれていただろうと話しました。

娘は?!それから弟たちは内陸を経由し大槌まで戻ってきた。どこを走っても停電のため真っ暗だったと。子どもたちは大槌小学校から大槌城山へ避難していると確信し迎えに行こうとしたが、既に町中へは入れない状況を目にした。

それから大槌で火事が発生した。城山に避難していた人たちは大槌高校に向けて避難場所を移動し始めていたという。弟は大ヶ口から城山に抜ける道が無いか地元の人に情報を集めた。大ヶ口の墓地から上がれるという地元でも古い人しか知らない道を教えてもらい、草や木々を掻き分け城山方面に向った。
「その時、お嫁ちゃんは?車に残したの?」妊娠7ヶ月の妊婦だった。嫁「辺りは真っ暗でね、一人で車に居んのはおっかねがったってぇ(怖かった)。子どもも心配で一緒に行ったよ。」私は上った事は無いが、場所的に考えるに相当な山道なはずだった。お嫁ちゃんに何事も無く良かった。

向う方向から人がやってきた。道無き道を城山から移動してきた人たちだった。弟たちは娘を確認し、それから車まで元の道を誘導し何度もピストン運動で大槌高校まで避難者を運んだという。城山避難所が火事のため大槌高校は当時1000人強とも言われる避難者が集まったという。その後、大槌高校の避難所名簿に弟夫婦の名前が上がる事となった。

それから、数日が大変だったという。食料を確保するため男性陣は瓦礫に埋まる町に出たという。食べられそうなもの、店などから流出したと思われるが生きるため毎日、毎日町に出たと、恐らく多くのご遺体を目の当たりにしたのだろうがそのことについては多くは語らない・・・。
火をおこしカップラーメンを作る。ふやかして半分食べる、またそれをふやかし量を膨らまし食べる。次いつ食べれるか分からないと食べる事を惜しんだ。
子ども、妊婦、両親、妹家族、叔父母、お嫁ちゃんの家族と、弟はズッシリと重い重い大きな何かを背負っていた事は話を聞いていて感じた。
8歳年の離れた弟。泣きべそで泣いたところしか私の記憶にはないが、この時に弟が泣きながら話した、本当に辛かったのだろうと。

もし、その日休みでなかったら弟は仕事でお嫁ちゃんも家に居たはず、その場合のシュミレーションをすればするほど、命があったかどうかは分からないと話す。「どうか分からない」というのは「駄目だったかもしれない」に等しい表現である。

「俊喜に助けられだぁ。」と母も叔父母も口を揃えて言う。
弟よ。偉がったな。よしよしと頭はなでる年ではないが・・・。背が私より大きくたって、はっきり言って中年のおじさんになってたって、私にはチビッコ弟のままなんだからさ。

8/15 盆帰省 ・・・続く1

金沢の夜、日中の暑さを忘れるほど気温が下がった。
「アイス食べるか?」と出されるジャリジャリのカップアイス。「寒んぶぐなってきたがら、いらね。」
ジャリジャリのカップアイス、練乳入りあずきとかいちごみるくとか。なんかほんとに実家に帰ってきてるんだと感じる“食”です。

夜、父はうれしかったのか少しお酒のまわるのが早かった。ほろ酔い気分で早めに床についてしまった。
母と弟と私と三人で居間でポツリ、ポツリと震災の日の話を始めた。

今まで2度帰省していたが、お互いそれぞれに話をする暇などまったく無かった。
物資を渡し、それを片付けて現在の状況、これからの動向、町の行方を話すだけで時間などなかった。

3.11父と母
その日、父母は3/15で終わる確定申告に行くために14:00を目処に釜石の税務署に出る用意をしていた。一旦店を閉め、父は自宅に軽トラを置き、母の軽ワゴンに乗り込んだ。
父の運転で軽ワゴンは釜石に向け走り出した。走り出してまもなく「さぁさぁ、靴とっけぇねぇで長靴履いできたがまぁ。」幾分走っていたので戻る事もせず釜石に向った。

地震は鵜住居を過ぎた頃に遭遇した。大きい地震と分かった。恋の峠を過ぎて両石の漁村センターの前で誰かが手を振る。「地震で危ねぇがら、ここさ車停めで。」と退避を促していたようだ。
父は「なにぃ、こんな低ぅどごさ。俺は高げぇどごさ車停めんがぁ。」と静止を振り切り走り出したという。母は誘導の通りに停めろとかなり父に食ってかかったそうだ。後方には車が連なっていたようだが、その内の何台かは誘導通りに入っていったのを2人でミラーで見ていたそうだ。

両石のトンネルを抜け、海を見た瞬間に何時もより大きな津波が来るのではないかと言う海の状況を見たという。釜石トンネルを入る前に車をUターンさせ、新しく出来たバイパスで大槌に戻る事にした。
母は言った「あの時、さいっこうにお父さんに食ってかがったっけど、お父さんの言うとおりにしておいて良がったって本当に思った。たまにはお父さんの言うごども聞がねぇど」と。
父はとても大らかで天然?!で実に愉快な人である。天然=野生の感とでも申しましょうか・・・。それが2人の危機を救ったのではないかと思います。

安渡の自宅に戻り、父は自分の軽トラに乗り換える・・・。ところがお嫁ちゃんの車も家のに停まっていた。父「おい!弥美さんの車はどうする?」母「車2台どうやって持っていぐっていいがら置いで。」と。お嫁ちゃんの車は購入してまだ2ヶ月ほど、父はなんとかしようと思ったが、最新式の車のキーは年寄りには分かりにくい。しかし逆にそれがあきらめの要因となった。結果は写真の通りとなってしまったが・・・。

2人、2台で大槌高校へと向った。その頃にはくるぶしまでの水が出ていたと言います。自転車で走る人、海のほうを眺めている人、海に様子を見に行く人様々だった。既に道は渋滞になりつつあったようです。

父母は表の道を通らず裏道を通り、火葬場の下の道を抜け、バイパスの下のトンネルを通過し大槌高校に上がった。高校の真下にある父の妹夫婦の家にたどり着いた時、衝撃的な津波がバイパスを越えて目の前にまで水が来ていたといいます。
だから、どのように津波が押し寄せ破壊されたかということはまったく知らなかったといっていました。沢山の材木置き場の丸太が波に浮かび、プカプカ浮いて押し寄せてくる。後ずさりしながらなにがなんだか分からなかったと話します。

それから母は体調を崩し、起き上がることが出来なかったと。父の妹夫婦の家にはそれから二ヶ月ほどお世話になることとなりました。「他の人には申し訳ながったが、布団さ寝がせてもらって食事も何とかでぎで、大澤には本当に助けられだが。」叔父さん、叔母さん本当にありがとうございました。

しかし、この4名(叔父母、父母)は在宅避難となり、避難者名簿に上がることなく私達は安否について本当に大変な思いで捜索しました。
誰も予測出来なかったことで、どうしてよいのか分からなかったと分かっていても、思わず「ちゃんと避難者名簿に名前書かないと分からないでしょ(怒)」と母にぶつけてしまった思い・・・生きていたから怒れるんだと分かっている。

2011年8月25日木曜日

8/15 盆帰省

盆帰省の続きを綴ります。

8/15日盆真ん中は安渡(今は金沢ですが)の両親、弟家族が避難先として借りている自宅?!にお世話になりました。

支援のお陰もあり、お布団で休ませていただく事もできました。

仮設とは違い、エアコンの無い家は“風”が頼みです。
節電のあおりで扇風機の購入には苦労しました。なんとか2台を送っていたことと、別の方にも1台頂いていたということでしたが、流れてくる風は生ぬるーい風。
室内にいるほうが良いのか、外のほうが良いのか?ありえない程の汗の量。

さて、夕方になりお墓参りに行くことになりましたが、これまた車で30分走ることになる訳です。
だいぶ片付いた町並み・・・な~んにも無くなってしまった町。頭の整理をしながら下りて行く。

実家のお墓は、墓地の中でも一番上の高台にあります。脚力が必要なんですが、ほとんど山登り状態です。
でも、その分見晴らしが良く、上がるといつも家を探して「家が見えた。」と喜び、そして我が子たちにも「あそこだよ。」といつも指差してました。

今回、目にしたのは更地になった安渡の町でした。その中にポツンとある建物が・・・なんと鉄骨で残った我が家でした。


うれしくもあり、悲しくもあり・・・。その先に見える瓦礫の山、無残に壊れた堤防。
一面の眺めで見渡せたこの場所が、もしかすると一番辛い現実を見る場所になろうとは思いませんでした。
そして満潮時を向え、道路は冠水していて我が家までは行くことが出来ませんでした。「これが本当の見納めだろうなぁ」

右側に目を移すと更地に伸びる雑草で緑が目に付きました。
塩分を含んだ土地でもこんなに雑草が伸びるのかと生命力の強さも感じました。


松明かしを終え、もと柏幸という父の船仲間&魚屋仲間の息子さんが町起こしに始めた“居酒屋ドン”に寄ろうということで町内を走ることになりました。
走りながら見渡すと、家々があったところには、亡くなった方のために花が置かれていたりととても切なくなりました。

小鎚神社境内の入り口に“居酒屋ドン”はありました。


新聞にも掲載され復興の先駆けとして気になっていたので、立ち寄ることができてとてもうれしかった。この目で見ることができて大きな大きな希望が湧きました。

盆の3日間盆踊りも!!
主催の方々のボランティアのお一人が「この辺の方はどんなので踊られるんですか?」と尋ねられてきました。
(んっ!祭りバガがバレたか)
炭坑節にマイムマイムとかでもやっぱり『大槌魚場音頭』ですよ。と話すと『大槌魚場音頭』が気になったらしく頭にインプットされてました(笑)
「私もネットで調べましたが、ローカル曲なんでネット上にはありませんでしたよ。」と。

祭り好き、踊り好きの私としては参加していきたかったのですが、なんせ金沢まで帰らなければならず。。。
盆踊りが始まる前に焼き鳥を食べ、持ち帰りに焼き鳥とイカ焼きを焼いてもらい帰路につきました。

その後、ツイッターのフォロワーさんから「自分の奥様が居酒屋ドンで盛り上がってる」とツイートが入りました。ほんの30分くらいのすれ違いだったようで。




2011年8月19日金曜日

8/14 盆帰省

8/14田舎の盆が開けた。
朝早くお墓に仏様をお迎えに行く。
いつもなら歩いて10分ほどの高台にあるお墓に行くのだが、今回は仮設から30分車で移動。

3.11から3度目の帰省で見る両石。目に映る光景と頭に浮かぶ光景が交差する。頭痛がする。納得いかない思いのためか・・・。
海岸に車を停めて歩いてお墓に上がる。
無残にも壊れた堤防。お墓に上がる急な坂道を上がれども上がれども津波に呑まれ土台だけを残す家々が目に入る。

ふと、後ろを振り返る。
まっさらに何も無い。素通しに海が見える。

また、前を向いて歩く。
お墓に着いてお参りをする。お位牌を作るため、塔婆の戒名を記録する。
そして皆でまた、海を見る。
お義母さんが言う「ホントに津波のこんちくしょうだぜ。」
海は何事も無かったように・・・。


同級生に会う。
「今どこに居る?」「何も無ぐなったぜぇ。」
「お前の母さんは、どごさ入ったんだ?」

今まで同じ地域で住んできたにも関わらず、お互いの近況を尋ね合う。地域も、人もバラバラになってしまっている。
悲しい光景。

本日の本業は仮設内をなんとかして生活できる状態にする事。
1週間前にやっと入居でき、洋服は袋に入ったまま出す事も出来ないでいる。
ホームセンターでスチール棚や物干し、キッチン棚やゴミ箱、ストッカーなど大物から小物までを買い揃える。一日その組み立てに追われる。なんとか形になり少しホッとした。

夕方、お墓参りに行く。
また車で移動30分。移動に時間が必要以上にかかる。町も渋滞。
また、ふと思う「なんでこんな事になってるんだろう。」

この日の夜、自分の実家が避難している金沢に移動だが、夕方のお墓参りから戻ったのは7時。義母を主人にお願いして、子どもを連れ車を運転して移動開始。

夜7時、辺りは既に真っ暗。仮設周辺には明かりはあったものの、町中に明かりは無い。車のライトに映し出される真っ暗な闇の道路。廃墟となったボロボロの家。
所々には瓦礫が積んである。どれだけ怖いか・・・。
子どもたちは「怖いから寝てるね。」と寝に付くが「オイオイ!私も怖いんだけど~」と言っても誰も聞いてくれない!

廃墟の町を走る事30分、前だけを直視しているものの目標物が何も見当たらないため道路の距離感が掴めない。前の街並みを想像して走る。
しかし、それが逆に“あるものが無い”恐怖感に変わる。そして、ここを流れた人々の無念さを考える。なんとも言えない気持ちで町中を走りきった。

金沢は大槌の町からは30分程。町を抜け、山道を走ると右に左にと仮設の集落が見え始める。もとの町からは15分から20分程の所に4~5箇所の集落があった。

金沢は山間部のため、家は所々にポツン、ポツンとだんだん少なくなり、一本道にも関わらず道を間違えているのではないかと不安になってきてしまった。待避所で携帯かけようと思ったら“圏外”
進むしかないか・・・とまた走り出した。




岩手に向って・・・

お盆の帰省8/13~16まで岩手に行ってた。
12日の深夜に出発。12時ごろだったかな。たいへんな渋滞に巻き込まれてしまった。
通常なら使える常磐高速が災害のための通行止め、その先に伸びる国道6号線は原発事故により通過は不可能。東北に向う車は東北道に集まった。

通常なら10時間も走れば実家に着いた。ところが宇都宮の渋滞はソロソロ走り止まるの繰返しで渋滞25Kmを二時間かけた。
渋滞といっても従来なら30~60キロ速度で走れているが、かなりの徐行運転・・・。この先三車線から二車線になればもっと混みあうだろう、パーキングも高速道路にまで溢れるほどで入れる様子も無い。
高速道路を降りることにした。

幸い、下道を走る事でトイレや食事はコンビニに寄れるということで助かった。

国道4号線で東北道と並走、携帯でハイウェイ交通情報を見ながら乗れる時にと思ったが渋滞のイライラ、眠気からなのか福島で2件、宮城で3件の事故が発生し乗れるどころではなくなっていた。
極めつけは岩手一関で事故・・・。
結局、高速道路に乗る事をあきらめ、4号線のまま帰宅する事にした。
釜石の義母の仮設住宅に着いたのは夜の8時、18時間のドライブ・・・結構しんどいものでした。

遠野を過ぎて釜石に近づく、暗闇の中を走っていると津波の被害はあまり見えない。「私の夢?!思い過ごしだったのではないだろうか?」と錯覚に陥った。
人間の思考回路とは本当に前向きに出来ているものだと感心する。
悲しい出来事をちゃんと回避できる仕組みになっているらしい。でも朝目覚めたら目の当たりにするであろう現実を・・・。

朝には着くと思って待っていた義母も待ちくたびれた事でしょう。
着く早々に用意していてくれた食事を皆でいただいた。
降りてしばらくすると腰に痛みが走った「うっ?!ぎっくり腰再発!!かぁ」

仮設は一人暮らし用の1K。スペースは四畳半一間。
あまりの狭さに涙が出てしまった。
仮設6点セットなるものは付いてはいるものの、あれこれ備品は足りない。
棚も無ければ掛ける場所も置くスペースも無い。

これから、生活していくのにこれではあまりに不便すぎる。
だが、年寄り一人でこれから後に棚を組んだり、組み立てたりは出来ない。
「明日、ホームセンターで必要なものの買い込みに走らなければ!」と思った。


次の日はお墓に朝早くに仏様をお迎えに行くため、早めに寝る事にした。
家族5人、二つの布団にゴロンと横になり窮屈ではあったが深い眠りについた。

2011年8月11日木曜日

お盆帰省

さてさて、明日の夜から岩手に帰省いたします。
3.11の震災から3度目の帰省です。

仏壇も位牌も無いお盆です。
義母も先週やっと仮設に入りこれからです。

いろいろな情報から見ても瓦礫の山だった町も、何も無くなったかのように平地になっています。
本当にそうなのでしょうか?
まだ、両脇に積まれた瓦礫の道路が忘れられません。

今日は、大槌で復興の花火が上がりました。
ニコニコ動画でライブで見ることができ、本当に泣けてきました。
残念なことに、音声デバイスを削除したままインストールしてないため・・・無音!!

子どもは花火のものまね(笑)
コメントが流れていたので、コメントを早口で読み上げる。うるさ~いっ!
臨場感?!にはかけ離れてしまいましたが、復興の花火を見ることができてよかった。

何かが変わった岩手大槌、釜石を見てきます。
そしていろんな事でお世話になった皆様にご挨拶そして、お礼をしてきます。

2011年8月8日月曜日

街のあかり

主人の母の仮設入居が決まりました。
7月末と言われてましたが、結局8月でした。
引越しの手伝いもあり強行日帰り岩手に主人が行くことになりました。
現地滞在時間は3時間?多くて4時間を切る。新幹線、汽車で過ごす時間のほうがはるかに長い。

釜石まで行ける連結できる始発は朝の6時。電車を乗り継いでは到底間に合わない為、東京駅まで送る事に。
朝は4時起き!!一時間移動を目安としたが乗り遅れては元も子もないので、4時半に出発です。もちろん、道の再確認で朝から私が運転(>_<)

30分前に東京駅到着・・・それは良いのだが帰りは一人運転!!
案の定、分岐点で隣の車に阻まれ入路できずに、横浜みなとみらいを眺めつつ帰宅。主人にその事メールで報告。もちろん爆笑(^Q^)

夜、帰宅の主人を迎えに行く。11時45分到着の最終新幹線。
夜が問題・・・。夜の首都高速暗い、暗い。
今まで街のあかりがあるからなんとも思っていなかった。
節電で主要を残しあかりは消えている工場、ビル、店舗、看板。
道の先が見えないんですよ。

どれだけ、街のあかりが東京と言う街を明るくしていたのか?!
首都高速を下りて下道を走るも、ビルは真っ暗だし看板もあかりがついてない為、ビルはただの黒い壁。
巨大な迷路に入り込んだよう。

街のあかり。
以前の街並みのあかりを思い出すが、どこを歩いても怖いと思わなかった。
だが、あかりが無いというだけでこんなに心細く、怖い思いをするのか・・・。

ふと、思い出した“ゲゲゲの鬼太郎”に出てくるいろいろな妖怪。
カドを曲がったらベトベトさんに遭いそうとか、待ってたらこの大通りを妖怪行列が通ったら?などと考えていたら、後ろを見れなくなってしまった(笑)

節電で電気使用を控えるということより、なんだかあかりと共に暮らすと言うことを考えられたらいいのだろうと思った。
電気=あかり・・・やっぱり“あかり”のほうがほのぼのしている。

2011年8月3日水曜日

知ってもらいたい事

あるツイートに上がった、アルピニストで有名な野口健さんのブログに福島で飼育されていた豚や牛の現状が記されていた。

津波のせいなのか?
だから原発がメルトダウンしたのか?
津波がなければ、メルトダウンしなかったのだろうか?
こんなに非常な状態になっていることをどれだけの人々が知っているのだろうか・・・。
野口健さんのブログですが、写真は限界ギリギリの内容です。
本当に見るに耐えない惨状です。
なので、かなり心して見ないと・・・写真に不快を感じる方は見るのはお辞めください。
http://blog.livedoor.jp/fuji8776/

なぜか、怒りがこみ上げてきました。
食す私達が、と殺と言う行為により家畜を死に至らしめている事は重々承知の事でした。
飽食の時代であっても「おいしく命をいただく」と言う事を小さな子どもの頃から、そしてはるか昔から言われてきたことです。

私は小学生の子どもたちに本当の現状を知ってもらいたくて、野口健さんのブログを見せました。
「なんでこうなってんの?」「ウジって何?」
疑問を抱くと言うのは必要な事です。そしてこうならない為にはどうしたら良いのか?をあなた方が考えていくのですよと。

それが、なぜこんな事になっているのか?
どう考えてみても“人災”であることは目に見えていること。

消える事の無い放射能汚染。
土、海・・・希釈すれば?!無くなる。そうではない。

H23.7.27 衆院厚労委員会 児玉龍彦参考人 3.21の雨
http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M

これを見て原発は必要なのか?
別の方法は無いのか・・・。
これからの世代の子どもたちをどう守っていくべきなのかと考えてしまう。