弟家族のその時
その日、弟は偶然にもお休みだった。
お嫁ちゃんの妊婦検診日をあてていたため、宮古に行っていた。
午後、検診を終えて帰路の途中、峠の山中で地震に遭遇した。下りに差し掛かったところで車が渋滞し始めたといいます。止まってしまった・・・。
車中でラジオ、携帯画像で津波の情報と映像を見た。もし下りきっての渋滞だったら津波に呑まれていただろうと話しました。
娘は?!それから弟たちは内陸を経由し大槌まで戻ってきた。どこを走っても停電のため真っ暗だったと。子どもたちは大槌小学校から大槌城山へ避難していると確信し迎えに行こうとしたが、既に町中へは入れない状況を目にした。
それから大槌で火事が発生した。城山に避難していた人たちは大槌高校に向けて避難場所を移動し始めていたという。弟は大ヶ口から城山に抜ける道が無いか地元の人に情報を集めた。大ヶ口の墓地から上がれるという地元でも古い人しか知らない道を教えてもらい、草や木々を掻き分け城山方面に向った。
「その時、お嫁ちゃんは?車に残したの?」妊娠7ヶ月の妊婦だった。嫁「辺りは真っ暗でね、一人で車に居んのはおっかねがったってぇ(怖かった)。子どもも心配で一緒に行ったよ。」私は上った事は無いが、場所的に考えるに相当な山道なはずだった。お嫁ちゃんに何事も無く良かった。
向う方向から人がやってきた。道無き道を城山から移動してきた人たちだった。弟たちは娘を確認し、それから車まで元の道を誘導し何度もピストン運動で大槌高校まで避難者を運んだという。城山避難所が火事のため大槌高校は当時1000人強とも言われる避難者が集まったという。その後、大槌高校の避難所名簿に弟夫婦の名前が上がる事となった。
それから、数日が大変だったという。食料を確保するため男性陣は瓦礫に埋まる町に出たという。食べられそうなもの、店などから流出したと思われるが生きるため毎日、毎日町に出たと、恐らく多くのご遺体を目の当たりにしたのだろうがそのことについては多くは語らない・・・。
火をおこしカップラーメンを作る。ふやかして半分食べる、またそれをふやかし量を膨らまし食べる。次いつ食べれるか分からないと食べる事を惜しんだ。
子ども、妊婦、両親、妹家族、叔父母、お嫁ちゃんの家族と、弟はズッシリと重い重い大きな何かを背負っていた事は話を聞いていて感じた。
8歳年の離れた弟。泣きべそで泣いたところしか私の記憶にはないが、この時に弟が泣きながら話した、本当に辛かったのだろうと。
もし、その日休みでなかったら弟は仕事でお嫁ちゃんも家に居たはず、その場合のシュミレーションをすればするほど、命があったかどうかは分からないと話す。「どうか分からない」というのは「駄目だったかもしれない」に等しい表現である。
「俊喜に助けられだぁ。」と母も叔父母も口を揃えて言う。
弟よ。偉がったな。よしよしと頭はなでる年ではないが・・・。背が私より大きくたって、はっきり言って中年のおじさんになってたって、私にはチビッコ弟のままなんだからさ。
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