2011年8月27日土曜日

8/15 盆帰省 ・・・続く1

金沢の夜、日中の暑さを忘れるほど気温が下がった。
「アイス食べるか?」と出されるジャリジャリのカップアイス。「寒んぶぐなってきたがら、いらね。」
ジャリジャリのカップアイス、練乳入りあずきとかいちごみるくとか。なんかほんとに実家に帰ってきてるんだと感じる“食”です。

夜、父はうれしかったのか少しお酒のまわるのが早かった。ほろ酔い気分で早めに床についてしまった。
母と弟と私と三人で居間でポツリ、ポツリと震災の日の話を始めた。

今まで2度帰省していたが、お互いそれぞれに話をする暇などまったく無かった。
物資を渡し、それを片付けて現在の状況、これからの動向、町の行方を話すだけで時間などなかった。

3.11父と母
その日、父母は3/15で終わる確定申告に行くために14:00を目処に釜石の税務署に出る用意をしていた。一旦店を閉め、父は自宅に軽トラを置き、母の軽ワゴンに乗り込んだ。
父の運転で軽ワゴンは釜石に向け走り出した。走り出してまもなく「さぁさぁ、靴とっけぇねぇで長靴履いできたがまぁ。」幾分走っていたので戻る事もせず釜石に向った。

地震は鵜住居を過ぎた頃に遭遇した。大きい地震と分かった。恋の峠を過ぎて両石の漁村センターの前で誰かが手を振る。「地震で危ねぇがら、ここさ車停めで。」と退避を促していたようだ。
父は「なにぃ、こんな低ぅどごさ。俺は高げぇどごさ車停めんがぁ。」と静止を振り切り走り出したという。母は誘導の通りに停めろとかなり父に食ってかかったそうだ。後方には車が連なっていたようだが、その内の何台かは誘導通りに入っていったのを2人でミラーで見ていたそうだ。

両石のトンネルを抜け、海を見た瞬間に何時もより大きな津波が来るのではないかと言う海の状況を見たという。釜石トンネルを入る前に車をUターンさせ、新しく出来たバイパスで大槌に戻る事にした。
母は言った「あの時、さいっこうにお父さんに食ってかがったっけど、お父さんの言うとおりにしておいて良がったって本当に思った。たまにはお父さんの言うごども聞がねぇど」と。
父はとても大らかで天然?!で実に愉快な人である。天然=野生の感とでも申しましょうか・・・。それが2人の危機を救ったのではないかと思います。

安渡の自宅に戻り、父は自分の軽トラに乗り換える・・・。ところがお嫁ちゃんの車も家のに停まっていた。父「おい!弥美さんの車はどうする?」母「車2台どうやって持っていぐっていいがら置いで。」と。お嫁ちゃんの車は購入してまだ2ヶ月ほど、父はなんとかしようと思ったが、最新式の車のキーは年寄りには分かりにくい。しかし逆にそれがあきらめの要因となった。結果は写真の通りとなってしまったが・・・。

2人、2台で大槌高校へと向った。その頃にはくるぶしまでの水が出ていたと言います。自転車で走る人、海のほうを眺めている人、海に様子を見に行く人様々だった。既に道は渋滞になりつつあったようです。

父母は表の道を通らず裏道を通り、火葬場の下の道を抜け、バイパスの下のトンネルを通過し大槌高校に上がった。高校の真下にある父の妹夫婦の家にたどり着いた時、衝撃的な津波がバイパスを越えて目の前にまで水が来ていたといいます。
だから、どのように津波が押し寄せ破壊されたかということはまったく知らなかったといっていました。沢山の材木置き場の丸太が波に浮かび、プカプカ浮いて押し寄せてくる。後ずさりしながらなにがなんだか分からなかったと話します。

それから母は体調を崩し、起き上がることが出来なかったと。父の妹夫婦の家にはそれから二ヶ月ほどお世話になることとなりました。「他の人には申し訳ながったが、布団さ寝がせてもらって食事も何とかでぎで、大澤には本当に助けられだが。」叔父さん、叔母さん本当にありがとうございました。

しかし、この4名(叔父母、父母)は在宅避難となり、避難者名簿に上がることなく私達は安否について本当に大変な思いで捜索しました。
誰も予測出来なかったことで、どうしてよいのか分からなかったと分かっていても、思わず「ちゃんと避難者名簿に名前書かないと分からないでしょ(怒)」と母にぶつけてしまった思い・・・生きていたから怒れるんだと分かっている。

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