2011年12月29日木曜日

3.11を振り返って・・・ 当日

2011年も残すとこ2日となりました。
激動、変化、災い、家族・・・といろいろと振り返ってみる事にしました。

3.11の東日本大震災
あの日を綴っておこう

記憶、日付は記したものではないので不鮮明な部分ではありますが・・・。

3.11(金) 地震発生!!私はいつもと変わりなく業務を行っていたが、反射的に2階から駆け下り玄関を開け避難路を確保した。
でも、そこから動く事が出来ない。ドアノブを押さえたまま立ち尽くしていた。
横浜は震度5強。目の前の家や電信柱が奇妙に揺れているのを見ながら、長い長い揺れに「この遊具から降ろしてくれ~」と三半規管がおかしいのではないかと自分を疑い、平静を保とうと必死だった。

一時、揺れが納まり放心状態・・・でも、岩手に居るころは幾度かそういう地震には直面した。しかし、こんなに長い揺れは初めて。
「今、何時?子ども達は・・・?」
長男くんは?5時間授業だから学校だ!。次男くんは・・・今日ははまっこ(放課後クラブ)に居る、学校に居るんだから大丈夫。

ナゼなのか?その日次男くんは、本当は4時間授業で帰宅予定だったが、その日に限ってなぜかはまっこの教室に行ってしまったらしく「はまっこに来ちゃったから、マー兄(にい)と一緒に帰るからマー兄が終わるまで居てもいい?」と指導員を通じて会社に電話があった。
私としてはその方が帰宅も安心と思い了解した。
瞬間に「2人とも学校に居る。」それが少しの安心だった。

幾度となく繰り返す地震。しかし、会社のある地域では停電は無かったため、社内的には単なる地震と言う感覚であった。
焦っているのは自分だけだったかもしれないなぁ。
ネットで地震の現状を把握すべく地震情報を探るがアクセスできない。パンクしてる!
主人にTELしようとしても携帯電話も通話不能、メール不能・・・どうなってる?

また地震、まただ、まただ・・と言っている内にあっという間に時間が経過していた。
そして、情報は携帯のワンセグの視聴で知る事になった。
津波の情報、岩手にはM9 震度8?!「日本が壊れてないのか?」ととっさに思った。
津波は?何メートル?3mとか5mとか・・・。
まもなくして、宮古市の津波の映像が流れた。ワンセグで見る映像で市場付近か「あ~~、よごだが流れてる?!違う、違う車だ。」
(よごだとは魚を入れる籠)
その瞬間に安渡の魚屋が頭に浮かんだ「父さん、母さんは?弟は?」
三人とも海のすぐ近く、防波堤の外に居る・・・携帯は繋がらない(;_;)
すぐ、逃げたのか?

私はどうすればいいのだろう、何をすれば・・・。頭がまわらなかった。
まずは、学校に子ども達を迎えに行かなければ、必要なら学校に再度避難か。
午後4時を過ぎたころメールにやっと着信音が鳴った。

学校からの一斉配信:余震が納まったので帰宅させます。(他省略)
「えーーーっ、余震落ち着いたって言っても、子どもだけでの帰宅は危険でしょ。」

同時にマンションのママから「子ども達を一緒に連れて帰ってるので心配しないで。」とメールが繋がったところにまとめて入っていた。地震後に心配したママが素早く学校に駆けつけてマンションの子ども達を早々に連れ帰ってくれたようでした。(ちょっと安心)

会社に早退の届けを出し、一目散に車に乗り込み家に帰る。その時車のガゾリンが半分だった事をなぜか覚えている。スタンドに寄ろうか?とほんの一瞬よぎったがそれどころでは無いよなと言う自分が居てスタンドを素通りした。後々これが残念な結果になるとは思いもしなかった。

マンションに帰ると玄関に『〇〇号室に居ます。』と張り紙がしてあった。
その場所へ行くと、連れ帰ってくれたママたちと子ども達が集結していた。そして主人も( ̄□ ̄;)!! あたしより早い!!
主人も玄関の張り紙を見て来ていた。とりあえずは我が家の顔は揃った。
も~う、平に平にお礼を述べた。本当にありがとうございますと。
自宅マンション付近も停電はしていなかったので、その場で津波の映像を見ていた・・・仙台だったと思う、まさか大槌や釜石がとてつもない津波に襲われていることを知らずに。

子ども達はそのお宅に犬をケージに入れて避難させていた。
その行動には少し驚いた、最初はそのまま連れて行こうとしたらしいが┐('~`;)┌

自宅に戻り、TVをつけた。
余震が続く・・・呆然とする自分とは裏腹に子ども達が防災用品を持ってくる。「お母さん、この袋だよね。食べ物とかはどうする?どの袋に入れる?」頼もしい限りだが私が判断がつかない。TVに釘付けになるからだ。
でも、これじゃイケナイ!!と乾麺や缶詰、手当たり次第入れられるものは詰めた。
ここも停電になるかも知れないと子ども達にはヘッドライトを首からぶら下げた。
地震がきたらまずは腹ごしらえ!そうばあちゃんに教えられた。
午後5時・・・夕飯には早すぎるがご飯を食べる。何を食べたかは覚えていない。

その後、TVで釜石の津波、大槌の町長が流されたと知る?
どうなってる?岩手と連絡がつかない。そこから今の自分の現状から岩手の家族や親戚・・・どうすればいいんだ?誰に連絡すればいいんだ?

名古屋の叔父からTEL。岩手に連絡するが誰とも連絡がつかない、それは私も同じだと話す。名古屋の叔父から山田の叔父は仕事で富山に居てこれから岩手に向うとのことだった。
すぐに山田の叔父の携帯に電話をした、とにかく声が聞けることがうれしかった。山田の叔父は無事だったと。

山田の叔父は富山から秋田経由で岩手に向かうという。どうなってるか連絡はするから・・・私はとにかく情報を集め連絡することを約束した。

そして、この夜はほぼ眠ることは無かった。
TVとラジオとネットを主人と見ることしか出来なかった。そしていつ来るか分からない地震、度々にけたたましく鳴り響くエリアメールにいつでも避難できるように。

ただ、今思うことはあの日このエリアが停電しなかったため、私達の恐怖感が少なかったこと、どこか他人事のようだった。

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