2011年4月21日木曜日

なんで見つかったぁ~ブログ

この度の震災で親戚や知人から「ブログを見つけて・・・」と言う一言が多かった。
確かに、実名公表で安否確認をしたことはしたが、いまいちよく分からなかった。

親戚からは関東に居る娘がブログを見つけてねなんて言ってるし、コメントにはお会いした方、両親から聞いた名前が連々と。
「何でだろう?!」思っていたけど、自分自身それどころではなかったもので気にはなりつつ放ったままだった。

今日「越田鮮魚店」で検索したら!!なんと1面中盤にいるではないですかぁ~。
おっどろいたぁ。
それだけ皆様がご心配くださっていたと言う事、本当に感謝いたします。
ありがとうございます。

密かなブログで主人には震災の前・・・今年になってからかな、ブログをやってる事をチョビット話しただけだった。
主人には「旦那の悪口ブログだから見たらショック受けるから見ないほうがいいぞぉ~」って脅かしてたから(笑)
って言ったからって遡り見はしないでくだせぃm(__)m

と・・・少し今日は笑いネタでした。

ブログをご覧の頂いてる皆様へ

越田鮮魚店家族は自力で大槌町金沢に貸家を見つけ、今週末あたりには引越し(と言っても持つものは最小限ですが)をし、やっと腰を下ろすことができるようになりました。
ご支援いただいた皆様方、ありがとうございました。大変ご心配をおかけいたしました。

今までは住まいを探すことで、探してからは住めるようにするためにと奔走していたので電話すらもままならない状態で、私自身もいまいち掴めておりませんでした(・・;)
まずは皆、風邪も引かずに元気でおりますのでご安心ください。

2011年4月20日水曜日

罹災証明

瓦礫の撤去の問題。
授業再開による避難所の避難者の引越し。
徐々に世の中が動いてきているが、被災者にはあまり良い状況、環境ではない事は確かである。

仮設住宅の遅れ、敷地がない。予定地に地割れがしている等々。
いまだ合同慰霊祭の日程すら見えてこない。

進んでいるように見えて、進んでいない。
進んでいるところもあるが、情報が行き渡らず滞っているところもある。

住まいの見通しも、職の見通しも、生活の見通しも見えてこない。
何を願っていけばよいのだろう。

でも、待っていてばかりではいけないと歩き出した家族。
自分たちで住まいを見つけ今週末には入居できる見通しが付いた。その強さには感服。

何度も入居寸前まで行き、ドタキャンの繰り返し。
このご時世遠くても親類、縁者が出てくるものでやはりそちらが優先となる。
しょうがない事だ・・・。

それでも縁あって貸家を借りる事が出来た。
この1ヶ月あまり毎日毎日あちらこちらを尋ね歩いていたようだ。

罹災証明書がやっと発行となる。
給付金がいつ入るのか分からない。

弟のお嫁さんの車は新車2ヶ月で廃車となってしまった。
災害では車両保険は下りず、無い車に保険はかけられないと解約したと言う。
しかし、罹災証明では車は対象にならないという。ローンだけが残る。なにか補助措置は無いのか・・・。

罹災証明書とは
震災や火災といった災害に遭い、家屋の損壊などの被害を受けた場合に、罹災の事実および損壊の程度などを証するものとして交付される書類。

罹災証明書を提示することで、損壊の程度に応じた生活再建資金の支給を受けることができるようになる。その他にも、学校の授業料減免をはじめとする救済措置を受ける際の証書となる場合が多い。

通常、罹災証明書の交付を受けるためには「罹災証明書交付願」(り災証明書交付願)を提出して申請を行う必要がある。具体的な申請の次第は地方公共団体(市町村)によって異なるため、各自が居住地区の手続き内容を確認する必要がある。

なお、罹災証明書の法的根拠について、罹災証明書の交付を明確に規定している法律はないものの、一般的には、地方自治法(第2条)や災害対策基本法などに基づいた各自治体の防災・救助事務の一環として実施されている。

罹災証明書の内容がいまいち見えてこない。
家屋についてのことは明確に出ているが、何に使えて何が駄目なのか?

語る事が出来ない

今朝の日テレの『スッキリ!!』になんと同級生が特集として出ていた。
会社に出る寸前のギリギリまで見続けた。

彼は仕事をしながら消防団に所属していた。
彼本人も被災に遭い、津波にものまれていたということを知った。

周囲の人は言う「九死に一生を得た」と。
確かにそれぞれがそうだったのかもしれないが、被災地で聞いた話を目の当たりにしてそんな生ぬるいものではなかった事・・・衝撃を受けた。

ずっと誰にも言わない。言ったところで共感は得ないと思っている。
惨劇・・・。
としか言えない。
テレビには出ない本当の怖さ、恐ろしさ。
辛すぎて、恐ろしすぎて私も誰にも言えない。
そこに遭遇したした人々・・・避難所で夜誰かが呻く。
「はやぐ逃げろぉ~」「たすけでぇ~」と。

主人の母は生き延びてからの究極の数日間が辛かったと話してくれた。
避難所で渡されたのは、新聞紙とビニール袋それで寒さを凌ぐように言われた。
建物の中に居るものの、余震が来れば直ぐに外の広場に移動。
その夜は幾度となくその繰り返し。眠る所ではない。

建物の中に居ても怖いので、広場で火を焚いている所に行くが零℃近い真夜中に炎で暖まることも出来ずまた建物へ。

被災地に赴いた時の寒冷を考えれば、本当に極限の状態だった事を痛感。
波にのまれてずぶ濡れで避難所に来る人は何人もいたと言う。

書き出してしまえばそれまで・・・やっぱりテレビと変わらない(;_;)
どんなに想像をしても分からないと思う。
映画館のような迫力の画面でも表現は出来ない。感じる事は出来ない。

360度見渡す限りの空虚。無くなってしまった家々。
そして縁のある人々との繋がりを感じなければ、痛みは分からないだろう。

今回支援してくれた人の中に、阪神大震災の時にボランティアに行った方が一言「僕もあの時被災地に行ったからものすごく分かる」
心の中に頭の中に閉まったまま・・・。
被災地の方々も生々しく見た現実はあまり語らない。
私もナゼだか誰にも話せない。

2011年4月16日土曜日

本当の人の姿

今回の東日本大震災において、多くの方々にご支援いただいていることを本当に感謝いたします。
本当に本当にありがとうございます。

震災から一ヶ月が過ぎ、日々のニュースも少なくなった。
これからの被災地への支援はどうなっていくのだろう・・・と不安になります。
ツイッターを見れば多くのボランティアの方々が、次から次へと被災地を目指して行きます。
それを見て多くの方々が忘れずに支援、応援してくれている事を実感します。

今回の出来事により、タイトルの通り「本当の人の姿」が見えたような気がします。
そして、私達がきちんと恩返しをしていかなければならないのだとも思いました。

主人の会社では家族のためにと募金や物資を募り、私達に手渡してくれました。
その対応の速さは、震災から1週間後には全て私達に託されました。
わざわざサイズを聞き取り、その情報を元に集められた洋服。
その奥様方や女性社員の方々からは、買い揃えた婦人物の下着もたくさんありました。
仕分けをしながら涙しました。

たくさんのお電話やメールもいただきました。

そして、何も言わずに送られてきた荷物・・・中には急場を凌ぐ物資と義援金。
何年も顔を合わしていない美容学校時代の友人からでした。

岩手に駆けつける事を聞きつけ、近所のママ友もペーパー類の消耗品や飲食料を持ってきてくれました。

阪神大震災を周囲で経験した友人は言ってました。
「自分たちの時もたくさん支援していただいたから。」
だからと言ってその行動は簡単にできる事ではないと思う。

『情けは人の為ならず』とは言うが・・・。
私は今まで何かをしてきただろうか?
役に立てることをしてきただろうか?

「大丈夫?!」と聞かれる。
「大丈夫って聞かないで・・・涙が出るから。。。。。」と答える。
だって、何をもって大丈夫なのかを答えられないもの。

「なにか必要なものがあったら言ってね。」と言われる。
「日々、刻々と必要なものは変化している、自分が支援していかなければならない家族や親戚が大勢でひとつひとつ上げられない。」
「今日明日に必要でも、三日後は足りている事もある。」と断る。

本当の意味で支援する事は情報を集め、必要とされているものをそれが提供できるかどうか。
だから、無責任には物資は送れないと思った。
『対岸の火事』と思っているからきっと分からないのだろうと、一時はひがみ感情も持ったね( ̄□ ̄;)!!

だから・・・思った。
恩返し、恩送りをして行こう!!

その形がどういうものかはまだ分からない。
まだ、先が見えないでいるから・・・。

『情けは人の為ならず』
学生の頃は「その人を助ける事はその人の成長の妨げ、乗り越える壁を手助けすることはその人の為にならない」のだと思っていた。
ことわざ辞典で本当の意味を知る事になったのは、数年前のこと。
本来の意味は「情け(=親切)は、いずれは巡り巡って(他でもない)自分に良いことが返ってくる(だから、ひとに親切にしておいた方が良い)」ということ。

2011年4月12日火曜日

先人の教え

また今日も携帯のエリアメールが鳴り響く・・・。「くるぞ!!」と構える。
日に何度か繰り返し来ると、慣れが生じてくる。
そのせいか、微動だにしない人さえ出てくる。
本当にそれでいいのか・・・?
映像では見てもやはり“対岸の火事”にしか感じていないのだろう。
誰もが「自分は大丈夫!!」と思っている事が大きな間違いである事をもっと切に感じてほしいです。

いま、突然そのままの着姿で何日間も放り出されたら・・・?考えてください。
運良く上着を着れたら良いでしょう。かばんを持っていたら少しは気が楽?

昔、子どもの頃から言われた事をよく考えてみると、何かの備えである事が分かりす。
全ては行儀だけのものではないと言うこと。

★はきものを揃えなさい。
よく祖母に「逃げる時は外に向って逃げるんだ。お前たちは家の中に逃げるか?!」と言われた事を思い出しました。
★部屋は掃除して、下に物を置くな。
深夜に地震や津波が来たときに、真っ暗中でも足元が安全であるように。
★使ったものは元の場所に。
暗闇でもあるべき場所にあれば、探さずに持って出られる。
★車はバックで入れる。
これは教官に言われた言葉。災害に遭ったときに直ぐに出られると。
★どこに、誰と遊びに行くのか?
親になって気がついた。災害が起こった場合いる場所が分からなければ本当に困る。
探す当ても無い状態になってしまいます。
自分が子どもの頃は「うるさいなぁ」って思っていたけど・・・。
これが一番大事なこと。
当たり前のことであることは、身の危険を守る事でもあったのですね。
今回の災害で子どもたちも本当の意味が分かったようです。

先人の教えは何らかの意味があったのです。
よく祖母は、地震が来たらご飯を食べて腹いっぱいにしてランドセルを持て!!と地震の度に言ってましたっけ。
その一食を食べたことと、食べなかった事ではその後にいつ食べれるか分からないと言う事もわかっていたのでしょう。
地震が来ると祖母は私達が食べてるそばから、握り飯を握っていた。その姿が目に浮かびます。

震災から1ヶ月が過ぎ、少しずつ少しずつ被災地も変化してきています。
家族たちも落ち着きが出て、現在は住処を探しております。
住処が落ち着いたら魚屋を立ち上げるべく準備を始めることでしょう。

赤浜の造船所も船を直す為、瓦礫の撤去に取り掛かる様子です。
船があれば漁が出来る。漁があれば魚も上がる。

三陸の幸を早く皆様に届けられる事願って、我が家族を応援していきます。

2011年4月8日金曜日

多くの協力に「ありがとう」と言いたい

昨晩も大きな余震があった。余震と言っていいのだろうか?
携帯のエリアメールが鳴る。TVでも緊急音が鳴りアナウンサーが警告を出す。

子どもたちをたたき起こした。
起きてきたところにゆさゆさと揺れ始めた。

現地でも余震は日に何度もあった。
地響きのような地震。音が聞こえる地響きの音「ゴゴゴゴオォォォ」
体育館で100人くらいの人が端から迫りながら駆けつけてくるような、と言う表現を義兄が言った。
まさにそんな感じ。
恐らく災害救援で行ってくださっている方々も怖い思いをされた事でしょう。

被災地を訪れて感じた事。

高速道路に多くのトラックがひっきりなしに次から次へと。
「災害支援」の横断幕を車の前に貼り、皆北へ向う。
こんなにたくさんの方が応援してくれているのかと手を合わせた。
「ありがとうございます。」

高速のパーキングに入る。
ガソリン給油の誘導の方、交代とはいえ寒い中夜中じゅう車を誘導する。
給油が出来ないスタンドでは、「給油終了」のプラカードを持ち深々と頭を下げる。
「そんなこちらこそ深夜にも関わらずありがとうございます。」

パーキングで休憩、食事を取る。
おそろいの制服に胸には他府県の刺繍を見る。
こんな寒いところまで、ちゃんと防寒はしてきたのだろうかと心配する。
「お体に気をつけて、よろしくお願いします。」

高速を降りて、被災地までの道のり遠野あたりから自衛隊のベースキャンプがぽつぽつ見え始めてきた。
少し現実から逃避行していた脳裏から「やはり本当のことなんだ。」と覚醒するかのように緊張感で嗚咽がした。行き交う自衛隊の車両。
どこかのTVで子どもが話していた事を思い出した。「なんか戦争の中に来たようだと。」
確かに、何両もの自衛隊車両に自衛隊員を目の当たりにして「怖い」と鼓動が上がった。

しかし、被災地に入り「怖い」という感情は消え去り、本当に頭が下がる思いをした。
人の捜索、瓦礫の撤去・・・仕事の義務とはいえ同じ人間であるのに・・・何体もの遺体を見てそして運び出す。前線での仕事を一手に行っている。
その姿を間近に見て本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。
「申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」と。

各県警の警察の方々も、信号の無い交差点に立ち車を誘導させる。
寒い中交差点に一人、二人で。何時間ここに居るのだろう?
「寒い中、ありがとうございます。」

ボランティアの方々も日の早いうちから不自由、不便な中で誰かのためにと炊き出しをしたり、物資を運んだり。
「あなた方に受けた恩は一生忘れません。」

でも、誰もかれもが小さな小さな人間に見えた。
建物の前に立つ人間は小さく見えた事は無い。ただ瓦礫の中に居る人間はナゼだか小さく見えた。
ガリバーが居たらいいのに、魔法使いが居たらいいのに、宝くじが当たったらいいのにそんなことばかり思った。

我が車が荷重に耐えられるか、タイヤはパンクしないかと思うほど荷物満載したのに。
ほんのわずかな物資しか持てない自分が非力すぎて泣けてきた。がんばったつもりでもこれっぽっちなのかと・・・。あっという間に助けてあげられないのかって。

横浜に戻り、支援いただいた方々にお礼を述べて歩いた。
一人、一人、一軒、一軒。。。「ご支援いただきありがとうございます。」
私達にできる事、被災地のみんなのありがとうを伝える事。

まもなくひと月を迎える。TVの報道も日々少なくなってきた。
今は、ツイッター情報を探し情報を集める。帰宅してネットで探す。
それが日課になっている。そしてこれから自分に何が出来るか。何をするのか?

=番外=
妹のTV安否が日テレでアップされた。
TVに被災地からのメッセージが出たのだ。
残念ながら先週被災地に向う前は3/18以降の物しかなかった。
思い立って日テレにメール投稿した。その後に遡りで安否撮影したものが上がった。
震災5日後といえばもっとダメージを受けた妹の安否放送かとばかり思っていたが、TVに映った妹は思ったより元気だった。
そのパワーにとても胸が熱くなった。撮影最後に「みんな元気ですっ!!」何度も何度もリプレイして妹のフレーズを暗記してしまった(笑)

先週会ってきたばかりの家族。みな元気に前をしっかり見ていました。
ご心配いただいております皆様「まだ、がんばって魚屋やっから!!」って言ってました。

2011年4月7日木曜日

被災した我が家たち・・・

2011/3/31から4/3まで釜石、大槌に行ってきた。
TVや写真を見ていたものの、この目で見た光景は頭の中では処理できないほど想像を絶する状況。

私が現地入りした日に両石町内を通過する事が出来た。
瓦礫に気をつけて車を主人の実家前に止め車を飛び降りた。
折れた電信柱、見渡す限り平野になっていた。

4/1妹の車で自分の実家に行く事にした。現地の妹でさえ震災から20日間安渡には入れていなかったとのこと「お姉ちゃんどこがどこか分からないからカーナビつけるね。」
確かにそうだ、なにも目標物がないのだ。「ここがこれで、河合さんがあそこでetc・・・。」
道の中央にあった線路の支柱が倒れていた・・・あ・り・え・な・い?!
カーナビを確認しながら道を曲がる。
お嫁さんの車は無残にもどぶ川のいつも曲がる橋に納まっていた。

あった!!倉庫の頑丈な鉄骨が残っていた。あの緑色~
正面のシャッターから二階はすっぽりと無い。
みんなでバーベキューしたベランダに網や浮き、瓦礫、どぶ川のフェンスまでもが上がっていた。地面を見た。砂浜になっていた。
ちょっと見ただけなら、瓦礫が散乱する砂浜のようだった。

茶の間があった方は跡形も無かった。自慢の最新式のトイレもどこへやら。
家の基礎を見て「こんな狭かったっけ?」と妹と話した。
我が家の鉄骨と赤崎さんの鉄骨だけがニョキっと、後ろを見ると漁民住宅が素通しで見える。

家の中にあったシンクがむき出しになっていた。
開けたら鍋が出てきた!!壊れていなかったので持ち帰った。
山トと書かれた私のおじいさんの屋号。子どもから見たらひいじいちゃんだね。
シンクの中に残っていたのはパン切包丁。「そうだ包丁!!あれば魚屋のじいちゃんも喜ぶはず」と鉄骨の中に入り、刺身包丁など残ってないか確認しようとしたがあまりにも瓦礫が積み重なり重くよける事が出来なかった。

遺体は表面的には回収したと言われていたが、その中は手をつけた様子が見受けられなかった。
子どもたちも連れていたのでそれ以上瓦礫をよける事はよした。

近くで越田鮮魚店のガムテープが貼ってあるダンボールを見つけた。
中にはふのりが入っていて、ビニール袋に包まれていたのか損傷が少ない。
使えそうなものだけ取ってきた。
そして横浜に持ち帰った。
大事に食べよう。