2011年4月7日木曜日

被災した我が家たち・・・

2011/3/31から4/3まで釜石、大槌に行ってきた。
TVや写真を見ていたものの、この目で見た光景は頭の中では処理できないほど想像を絶する状況。

私が現地入りした日に両石町内を通過する事が出来た。
瓦礫に気をつけて車を主人の実家前に止め車を飛び降りた。
折れた電信柱、見渡す限り平野になっていた。

4/1妹の車で自分の実家に行く事にした。現地の妹でさえ震災から20日間安渡には入れていなかったとのこと「お姉ちゃんどこがどこか分からないからカーナビつけるね。」
確かにそうだ、なにも目標物がないのだ。「ここがこれで、河合さんがあそこでetc・・・。」
道の中央にあった線路の支柱が倒れていた・・・あ・り・え・な・い?!
カーナビを確認しながら道を曲がる。
お嫁さんの車は無残にもどぶ川のいつも曲がる橋に納まっていた。

あった!!倉庫の頑丈な鉄骨が残っていた。あの緑色~
正面のシャッターから二階はすっぽりと無い。
みんなでバーベキューしたベランダに網や浮き、瓦礫、どぶ川のフェンスまでもが上がっていた。地面を見た。砂浜になっていた。
ちょっと見ただけなら、瓦礫が散乱する砂浜のようだった。

茶の間があった方は跡形も無かった。自慢の最新式のトイレもどこへやら。
家の基礎を見て「こんな狭かったっけ?」と妹と話した。
我が家の鉄骨と赤崎さんの鉄骨だけがニョキっと、後ろを見ると漁民住宅が素通しで見える。

家の中にあったシンクがむき出しになっていた。
開けたら鍋が出てきた!!壊れていなかったので持ち帰った。
山トと書かれた私のおじいさんの屋号。子どもから見たらひいじいちゃんだね。
シンクの中に残っていたのはパン切包丁。「そうだ包丁!!あれば魚屋のじいちゃんも喜ぶはず」と鉄骨の中に入り、刺身包丁など残ってないか確認しようとしたがあまりにも瓦礫が積み重なり重くよける事が出来なかった。

遺体は表面的には回収したと言われていたが、その中は手をつけた様子が見受けられなかった。
子どもたちも連れていたのでそれ以上瓦礫をよける事はよした。

近くで越田鮮魚店のガムテープが貼ってあるダンボールを見つけた。
中にはふのりが入っていて、ビニール袋に包まれていたのか損傷が少ない。
使えそうなものだけ取ってきた。
そして横浜に持ち帰った。
大事に食べよう。

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